Memoirs回顧録〜益子己之次と第一絞製作所〜

これは、2010年(平成22年)に第一絞製作所が設立50周年を迎えたおりに、益子己之次氏による回顧録として手記されたものです。

1. 設立と初期の苦労

「株式会社第一絞製作所50年の歩み」
弊社株式会社第一絞製作所は、昭和35年4月に株式会社よろづ絞製作所より別法人として分離独立。東京都品川区東中延町に資本金50万円にて、有限会社第一絞製作所を設立。
第一絞製作所は3名で営業をスタートしました。
私益子は昭和31年3月31日、集団就職列車で仙台駅を立ち、翌4月1日の朝6時頃に上野駅に着きました。私が入社したのが有限会社よろづ鉸製作所でした。当時のよろづ鉸製作所は、4人の社員を含め総勢7名という人員構成でした。
その7人の中に私益子を含め二人が新入社員として入社しました。その頃は全員が住み込みでした。入社当時は非常に忙しく、朝6時起床して、会長の車掃除・靴磨き・その後朝食、8時から仕事に入る、仕事の終わり時間はほとんど夜9時。日曜日もほとんど仕事、月に一度くらいは休みが取れました。定時間は朝8時から夕方6時まででした。毎日3時間の残業でした。日曜日の休日出勤を加えると時間外労働時間は100時間くらいが普通でした。当時の給料が月2,000円・残業一時間10円でした。当時はおなかいっぱい食べられたのが幸せで、何の不満もなかった。仕事が終わった後で会長のところでテレビを見るのも楽しみの一つでした。そのような状況の中で、とにかく仕事を覚えるのに必死でした。

2. 第一鉸製作所への移籍と再出発

そのような状況のなか、昭和40年5月頃だと記憶しておりますが、会長に呼び出され、よろづ絞から第一絞に移るようにとの話がありました。私益子と渋谷君の二人で第一鉸に行くことになる。第一絞に移った当時はあまり仕事もなく、客先も少なく大変苦しい再出発でした。営業・仕入れ・製造・納品・集金など、二人で力を合わせ第一鉸として、格好がつくようになるにはそれなりに、口では言い表せない苦労もありました。

3. 川崎への移転と設備の充実

その後も東中延で操業しておりましたが、東中延での工場が手狭になったため、昭和42年1月に川崎市南幸町に土地を買い、工場及び宿舎を建設。同年12月に川崎に移転、その時の川崎の土地の広さは43坪だったと記憶しております。資本金も同年12月に50万円から増資をして750万円になる。東中延にいたときは、足踏みのシャーリングとベルト掛けの絞旋盤2台と仕上げ旋盤1台とサークルシャーしかありませんでした。
川崎に移ったとき、はじめて電動の四尺シャーリングを入れることができた。今まで足踏みのシャーリングで材料を切っていたので、板厚1.6以上の材料は切断するのに大変でした。それが電動のシャーリングで楽に材料が切れるようになって、本当にうれしかったのを覚えています。
川崎にいた頃のおもな仕事は、集塵機部品の製作でした。川崎には昭和42年12月から昭和47年の1月末まで操業しておりました。

4. 横浜への移転と業績の変動

創業者の渡邉萬蔵氏は川崎工場も手狭になることを予期し、移転場所をいろいろ探しておられました。昭和46年1月に横浜市港北区綱島東に150坪の土地を購入し、工場及び宿舎を建設。現在のスレート屋根の部分を工場とし、現在食堂がある部分に宿舎を建設、昭和47年2月1日より港北区綱島東に移転操業を開始する。その頃から径の大きな鉸品の引き合いが多くなり、手絞大型機械を設備し大型の送風機部品に対応する。また昭和48年には工場の隣接地90坪を購入し将来に備える。川崎から横浜に移る時期にはあまり業績も良くなく、その頃の取引銀行から融資を受けられず、別の銀行に変更、何とか苦しい時期を乗り越えることができた。亡き会長の先見性にはただ頭が下がる思いです。
当時の工場の前には、どぶ川が流れており、小鮒やドジョウもおりました。自前で橋をかけ道路から出入りしていました。その道路といえば舗装もされておらず、雨が降ると長靴以外ではとても歩けませんでした。それに今リーダー電子のある場所にアルミを溶かす工場があって、塩酸のにおいがいつも漂っていました。

5. 自動化への取り組みと業績向上

その後の仕事は順調に推移し昭和49年3月に資本金750万円から増資をして資本金1600万円となる。昭和60年には工場が手狭になり隣接地90坪に工場を増設する。その翌年昭和61年5月に念願の1500型スピニングマシン(加藤製)を導入する。スピニングマシン導入により厚物絞または大径の絞が非常に楽に作業ができるようになり業績に大きく寄与する。また昭和63年12月には750型半自動スピニングマシンを導入する。これも大いに省力化に役立つこととなる。
平成3年7月に有限会社第一絞製作所から「株式会社第一絞製作所」に組織変更する。
平成5年2月には創業者である渡邉萬蔵社長が代表取締役会長に就任。そして同年同月に代表取締役社長に渡邉貞子就任する。平成6年8月10日には会社にとってとても悲しいことがありました。私と一緒に第一鉸製作所の発展にがんばってこられた渋谷弘さんが、病気のため亡くなられたことです。
第一鉸製作所50年の歴史の一端を担ってこられた渋谷さんが弊社にいたことを覚えていて欲しい。

6. 新社屋建設と設備投資

事務所及び食堂が手狭になり、平成8年4月に事務所・食堂・更衣室などの建設に着工し同年9月に新社屋が完成する。会社での業務環境が大きく改善され社員一同大喜びする。
平成8年10月には仕事量が増え、また新社屋完成により機械設置場所の確保ができ2台目の1500型スピニングマシン(日本スピンドル製)を導入する。また平成13年3月には1000型スピニングマシン(日本スピンドル製)を導入し合計4台のスピニングマシンを所有することになりました。
手絞から自動化へと大きな省力化により、業界での競争力を発揮し、径の大きい鉸品及び板厚の厚い鉸品の獲得に大いに役立つことになりました。
平成14年6月には約120坪の土地と工場を購入し、第二工場とする。現在はおもに倉庫として使用しています。

7. タイヤメーカーとの共同開発と挑戦

平成13年4月にタイヤメーカーの開発課の担当課長と伊勢原の企業様より製品開発の話を持ちかけられ平成13年6月から開発試作に入ることになりました。ところが平成13年11月に話を持ち掛けていただいた企業様が倒産し、第一絞が6月から11月までに売り上げた約570万円の売上金を1円も回収できずに全額負債となる。
開発はまだ始まったばかりで、タイヤメーカー側との交渉のすえ、第一絞がタイヤメーカーと直接取引をすることに決定し、第一絞とタイヤメーカーによる開発に本格的に取り組むこととなる。ハイテン80Kという厄介な材料に大変な苦労をすることとなる。溶接条件・穴あけ作業・量産に向く加工方法など苦労のすえ、4年の歳月をかけて平成17年の6月にやっと完成することができました。同年8月から本格的な量産に入ることになった。第一鉸にとって非常に大きな出来事であった。
量産機械の製作にも、大東スピニングとの二人三脚で量産能力のある機械も完成することができた。量産機械は大東スピニングと第一鉸の共同で特許取得済みである。
試作完成、即量産開始という状況の中、樽町に量産専用工場を平成16年12月に借り、また機械その他諸設備も整い、平成17年8月から本格的な生産開始となるが最初は軌道にのせるのに大変苦労をしましたが、社員皆の頑張りで順調な生産を確立することが出来た。おそらく会社50年の歴史の中で樽町での生産に携わった皆の無駄のない動きと心意気は今後とも語り継がれていくことでしょう。平成20年12月に生産を終了するまで合計17万6000個を生産しました。
第一絞製作所50年の歴史の中で大変貴重な経験であり、その達成感を実感した4年間でありました。

8. さらなる飛躍を目指して

平成20年12月には第二工場の隣接地約110坪を購入することが出来ました。第二工場と隣接地に新工場建設の構想もありましたが、経済状況の変化により実現することなく現在に至っております。
これからも現状に満足することなく、未来に向かってさらなる進化を遂げてほしいと願っております。

9. おわりに

第一絞製作所の50年間の推移を簡単に書きましたが、ここまでくるにはいろいろな苦労や、また楽しかった思い出がいっぱいありました。
これからも70周年、100周年に向けてさらなる発展を遂げていただきたいと願っております。
社長、部長、社員一同力を合わせて会社の継続発展のために頑張っていただきたい。
この度、会社を去るにあたり54年8カ月の長きにわたり、会社、亡き会長、社長、そして社員の皆さんには本当にお世話になりました。心より御礼申し上げます。

平成22年10月22日
益子 己之次

Memoirs益子己之次 10か条

私が約55年間に学び経験したことで、今後何かのお役に立てればと思い最後に私の格言として10か条を残します。何かの折に役立てば幸いです。