戦後混乱の中での創業
終戦より5年。初代渡邉萬蔵が戦地より生還の後、1950年(昭和25年)まだ混乱が残る東京都目黒区月光町(現 目黒区本町)の僅かな土地にトタン屋根のバラック工場ではありましたが、金属加工会社「よろづ鉸製作所」を立ち上げました。(初代渡邉萬蔵は15歳から鉸加工をはじめ様々な金属加工の技術を学んでいました)
鉸加工は、手作業が多いとはいえ最低限の機械設備も必要で、多くの工場や機械が破壊されていた日本において、新しい機械を購入するのが難しく、中古のモーターを手に入れ、そのモーター一台を使いベルト駆動で数台の機器を同時に動かして鉸加工を行っていました。安全な環境での作業ではないことを十分承知の上、やらないと生きていけない時代でもありました。
高度経済成長の落とし穴
1955年(昭和30年)ころから日本は高度経済成長期に入り、金属製品に対する需要が大幅に増加。これにより売上と利益が急速に増加していきました。様々な分野からの注文も増えることで、新しい設備の導入や生産性の向上と、それに伴い働き手も増えました。初代渡邉萬蔵は、これからの競争力を維持するために労働者の訓練と技術力向上に力を注ぎました。
それは、熟練労働者が不足する中、需要に伴い長時間労働で無理してでも生産性を上げることによる弊害という落とし穴が必ずあると考えていたからです。
頑なな姿勢
初代渡邉萬蔵は、同じ金属加工会社の、粗悪な生産品に加え、過酷な労働条件による事故や怪我が続発することがどうしても許せなかったとのことです。
社員の働く環境がもっと良くなれば「より安全に、より良い品を」生産し続けられる。初代渡邉萬蔵は、頑なにこの考えを崩しませんでした。
よろづ鉸製作所と第一鉸製作所
1960年(昭和35年)「有限会社 第一鉸製作所」を設立。作業内容は「よろづ鉸製作所」とほぼ同等。同業の系列会社を設立することで、良い方向での競い合いを促し、両社間で技術力の切磋琢磨を、より安全な環境下で競い合いました。両社とも社員の安全を最優先に考え、全ての工程において事故を未然に防ぐ取り組みを徹底させていました。この時代にはきわめて珍しいことですが、工場内にエアコンを設置しました。これは、初代渡邉萬蔵が「とにかく社員を大切にしたい。気持ちよく働くためには、働く環境が非常に大切である」との考えからでした。
転機
1971年(昭和46年)に横浜市港北区に新工場用に土地を取得し新工場と社員寮の建設。1972年(昭和47年)に移転操業開始し、その頃より大口径サイズの鉸加工機械導入により大型の送風機製造に対応しました。大型製品の製造に関わることで、品質の向上と共に製造技術が飛躍的に向上しました。一時期経営が苦しくなる時期もありましたが関係各所の手助けもあり、更に工場隣接地の取得と工場拡大を進めることが出来ました。
意思を受け継ぐ
1993年(平成5年)二代目社長 渡邉貞子就任。常に革新的な技術向上にも挑戦しながら、初代の意思を継承し、「安全第一」「社員を大切に」を心に刻むと共に、2024年(令和6年)三代目社長 渡邉堅太郎へと、志を受け継いでいる。